2002年5月

3日(金)
 今日は5月3日の憲法記念日ということで、まずはキクラゲの話題から。この前キクラゲが大好きだという雑談をしていたら、紡績のO女史がわざわざ持ってきてくださいました。中国からお父様が送ってくれているのの、お裾分けだとのことです。謝謝m(_ _)m。と言う訳で、豚肉を炒め、それに白菜をぶっこんで、塩・胡椒・顆粒ニンニク・鷹の爪で味付けし、キクラゲを入れて若干加熱して、最後に水溶き片栗粉でとろみを付けていただきました。かなり贅沢なキクラゲの使い方をしてしまいまして、白菜:キクラゲが2:1くらいの割合で入っているディッシュでした。とっても美味しく、とっても美味な食感で、中国4000年の神秘を堪能です。

 で、食べ物ネタをもう一つ。本郷通りを東大から本駒込の方に向かいますと、日本医科大学前を経由して不忍通りに向かう三叉路があるのですが、そこのかどっこに〈バゲニ〉というトルコ料理屋さんが出来まして、この度行ってまいりました。味はまぁほどほどで、値段が手頃なので、たまに行くには良いかなって言う感じです。

 東京にいながら食べられる各国料理の数は、世界最大数であろうとしばしば言われますが、僕が行った記憶があるだけでも、日・仏・伊・独・露・印・墨・韓・米・北京・四川・広東・香港・台湾・大阪・タイ・ブラジル・モロッコ・スイス・ネパール・パキスタン・インドネシア・ベトナム・トルコ、なんていう感じですから(あぁ一部横浜や都下が入っていますが)、やっぱり多いんだと思います。

 ここから話を強引に展開させますが、フランス大統領選に決戦投票まで残ったルペン氏が、日本の移民政策をフランスも見習うべきだと主張しているらしく、フランスの極右と日本の一般的な考え方って近いのかぁと、妙な感心をしてしまったからです。この程度の触れ合い方なら、フランスの極右も違和感なく受け入れるのだろうかと。

 僕の見解としては、今の政治難民に対する日本の対応は、明らかに不十分だと思っています。数ヶ月前アフガン難民に対する入管の対応がマスメディアでも取り上げられていましたが、未だ思想信条宗教などによって迫害を受けている人々に対しては、それぞれの国内事情が許すまで、支援をしないまでも、居場所を提供する寛大さは必要ではないでしょうか。その意味で、フランスの理念はとても尊敬しています。また、資本(中小までも含め)の国際化は今以上に進むべきではないでしょうか。今どき植民地化の危機など無いでしょうから、何をするにも民族資本という発想からは、そろそろ離脱しても良いかと思います。

 しかし、経済難民に対する対応は、現状はかえって不十分であると思います。200年前の日本で各村落にアイデンティティーがあったように、現在の国家ごとのアイデンティティーは、いつの日か過去の出来事となる日が来るかもしれません。ですが外国人労働者を入れるというのは、それが安価であり資本にとっては便利であっても、現状では必要以上の摩擦を生み出すだけでしょう。英独仏墺などで、外国人労働者排斥・襲撃が生じている中、日本が同じ轍を踏む必要は無いはずです(浮浪者を襲撃する少年たちが、外国人を襲撃しないと何故言えるのでしょうか)。特に中小土建屋保護の外国人労働者導入なんて論外です。

 飲食店や輸入雑貨商など、ある程度資産がある人々との交流の中で、また芸術や文化・学問の交流の中で、漸進的に日本国内の文化や慣習も変化し、その結果として労働力が交流しても摩擦が生じないような社会が来るならば、それは多分素敵なことだよなぁとは思います。ですがそれは、100年、200年かかる社会史的な長期間の変化として可能な出来事であって、拙速に物事を進めれば、待つのは悲劇では無いでしょうか。

 今日はついでに2つ目の話題。先日の話ですが、半年前に世界一周旅行に出かけたバカップルが、戦闘状態にある聖誕教会付近に何も知らないまま近寄り、ジャーナリストの誘導で避難したというニュースがありました。そしてもう一つ、千島列島へ秘境ツアーに出かけた2人組が、現地のロシア人ガイドが止めるのも聞かず、登山をした結果滑落して死亡したニュースが気になっています。

 何故このニュースが気になっているのかというと、これの当事者が両方とも、27〜28歳という、まさに僕と同世代の人間が起こしたお騒がせだからです。寿命が延びたために、昔と比べて精神的な成長が遅れているとはよく指摘されますが、それにしたって20代後半ですよ。そこまで世間知らずで、そこまで無鉄砲で、自分の命もいらないような行動が出来るって言うのは、やはりおかしいです。僕だって21・2くらいの時までは、一つ間違えばって言うようなことはしてましたけど、そういう行動って卒業するときは来るもんなんじゃないでしょうか。死と隣り合わせを自覚する冒険自体、あまり僕は評価しませんが、無自覚なまま死に隣接する行動を取るなんて傍迷惑。そんな同世代が何人もいるのは憂鬱なものです。

 と常識的なことだけ書いていてもつまらないので、ここで昔の愚行を告白。20歳の頃、友達と河口湖に行ったときの事ですが、富士山が美しく見渡せる天上山というのがありまして、そこへ行こうと言うことになったのでした。で、ロープウェーがあるのですが、ハイキングコースもあるというので、歩いて行こうと決め、入り口を探したのです。しかし、それがどこに有るかよく分からず、まぁここだろうと見当をつけて登り始めたのですが、次第に獣道に変わっていったんです。

 おかしいなと思い始めてから、行くか戻るか話しつつ登っていたら、そのうちに道は更に怪しくなってきました。しかし前日雨が降っていたこともあり、戻ろうとしてもその時にはすでに、明らかに下るのは危険な状態でして、傾斜45度を越えているところもあって、登るしか無いという状況へ追い込まれていました。ここで滑落したら、〈お騒がせ東大生河口湖で遭難〉っていう記事がスポーツ新聞の片隅に載るかもなぁ、などと言いつつ、泥と樹液にまみれながら、2時間くらいかかってなんとかハイキングコースへ辿り着いたのですが、本当にあれはやばかったです。

 だけど、さすがに20も後半になってそれは出来ないでしょう。20歳でも若気のいたりで済ませられたかどうか怪しいですが、少なくともモラトリアムが終わってからは、そういう行動は恥ずかしくて出来ないものではないでしょうか。

8日(水)
 このGWの感想であるが、他人の恋愛って言うのは良く分からないもので、なんでこんなんで続いていられるのだろうと言うのもあれば、なんでこれが不満で別れるのだろうというのもある。そんな訳で数人で飲むときには、恋話って言うのは良いつまみになるのであるが、これがまた楽しめる恋話と楽しめない恋話があるから面白い。

 楽しめない話としては、ホントに切実過ぎて、酒の肴には出来なく、かえって冷めてしまう話が一つ。全く隠しとおすのが一つ。あまりにも明け透けに何もかも話してしまうのが一つ。つまり楽しい恋話というのは、適度に隠しつつ、適度に小出しにしつつ、あまり深刻ではないんだけど、ちょっとノロケながら、ちょっと悩んでるくらいの話をすると一番面白い。

 まぁ、僕がそれに則った答え方をする訳ではなく、そんな感じで返してくれると楽しいというだけの話であるから、酔っ払いって言うのは我ながらほんとに面倒なものだ。要するに恋愛相談は恋話とは異なり、ノンアルコール下でする方が好ましいのだけど、そんな話している時って言うのはだいたい、パブロフの犬のように酒が欲しくなる。本当に困った困った。

9日(木)  
 今日はFWの話でも。高原のエコノミークラス症候群に始まって、西沢は盲腸と、何じゃそりゃって言う感じで何かに祟られていそうなFWだったのですが、ついに柳沢が発熱でダウンだそうです。取り敢えずお払いだけはちゃんとやって貰った方が良いと思うのですが、カズの生霊とかかもしれないですしね。

 で、ここはやっぱりピンチの時の助っ人FWとしては、吉原宏太が良いと思うんですけどね。時はシドニー五輪予選、あの時も高原が怪我してて、どうしようも無くなって急遽呼ばれた吉原が、ハットトリックもしつつ、日本を波に乗せてくれました。その後は代表候補には呼ばれるものの、いつも候補止まりで代表にはなれず、コンサドーレからガンバへ移籍したものの、コンサドーレ時代の方が活躍していたのではっていう感じでしたが。でも最近はガンバで調子良いんですよね、確か。J1でもヤマザキナビスコでも、そこそこコンスタントに得点挙げているはずです。ここらで代表に入れて、景気付けしましょうよ。

 まぁ中田をFWに持ってきてっていう案もあるようですが、いまいちだと思うんですよね。カズは論外として、中山も北嶋も調子良くないみたいですし、他に選択肢無いでしょぉ。久保は嫌いだし。後誰が代表候補だったっけ。鈴木と吉原の2人で決めときなって、悪いこと言わないから。

11日(土)
 きょうレンタビデオ屋をブラブラしていたら、〈ざわざわ下北沢〉なんて言うのを見つけたので、懐かしさに惹かれてちょっと借りちゃいました。監督は市川準です。田中麗奈やら渡辺健やら広末涼子やら樹木希林やら豊川悦司やら鈴木京香、その他も色々と豪華な脇役陣が出ている。まぁ準主役の原田芳雄とりリィはいるが、主役は北川智子と小澤征悦と言うほぼ無名の役者(小澤征悦は最近見かけるけど)で、演技もさほど上手いわけでもない。

 そう、この映画は下北沢って言う街がメインテーマ兼メインキャストでして、如何にこの街を描くかが重要視されたみたいです。実は大学1年〜4年の中頃まで駒場(別に寮じゃないですよ)に住んでいたのですが、駒場ってちょうど井の頭線で渋谷と下北沢の中間にありまして、週に3日は下北に行っていたような気がします。そんな訳で、この映画は2000年に撮影されてはいるけど、殆どのシーンがどこで撮影されているか分かりまして、まぁツボにはまれるんですよね。

 描かれているのは下北沢の日常で、下北沢にいる限りには不思議ではない世界なんだけど、それが一歩外から覗くと、限りなく非日常的な世界。この映画は、そんな非日常とどう関わったか、関わるかによって、受ける印象が全然違うんだと思います。カルチャーになりきれない、サブカルチャーの街、しかしカルチャーへの飛翔の可能性を孕んでいる。そんな通りすがりの人々と、下北沢に住んでいる、長年住み着いてしまった人々、そこらの交錯が見事に描かれています。

 ただ、下北沢って言う街は、南口の雀荘飲み屋が多いエリアと、北口の古着や小物など扱ったお洒落なエリア、本多劇場を中心とした一種独特なエリア、それがある部分混じりあい、ある部分独立して存在するのが、この街の多面的な魅力ではないかと思う。そういう意味で、この作品は演劇人が見た下北沢のイメージであり、井の頭沿線にいる普通の大学生や、ファッション雑誌などに憧れて訪れる女の子達から見た、そんな下北沢の顔とはまた別だろうなって言うのが感想です。

12日(日)
 古い友達達に会う。場所は高円寺の沖縄料理屋〈きよ香〉本店。ゆずのコンサートに続いて、山手線脱出第2弾です。泡盛や奄美の焼酎片手に、豆腐よう・ミミガー・海ぶどう・ラフティ・ーサーターアンダギー等々をいただいて参りました。お店では元ちとせやキロロ、それにもうすぐデビューらしい夏川りみというシンガーの曲がかかってて、お客さんも半分以上が沖縄出身の方たちのお店で、そうそう、〈ちゅらさん〉に出てたあの沖縄料理屋を、少し狭くした感じと思っていただければ良いと思いますが、そんな場所で一時を楽しんで来ました。

 海ぶどうって言う食べ物が、けっこう気に入ったんですが、どうやらあんななりして海草らしいです。味は軽い塩味がついている上に、ポン酢系のタレを付けましたが、それでもお酒のつまみとしては爽やか過ぎていまいちでしょうか。ただ、その食感がとっても楽しくて、プチプチプチと口の中で弾ける感触、つぶれ終わった後の少しヌメっとした舌触りなどは、ちょっと他には無い感触かもしれません。

 基本は自分のホームグラウンドで生活しているのが好きなんですが、たまにセンスの良い友人の紹介で連れて行ってもらう、センスの良い空間って言うのは、チョッピリ開拓精神が乏しくなって、チョッピリ飲む店や食べる店がマンネリ化している中では、心地よい刺激です。毎日のように新しい空間を探して歩いていた、駒場時代がチョッピリ懐かしくもなりました。

16日(木)
 4年ぶりに腰をひねってしまい、ここ数日間寝込んでいるのですが、借りてあったレンタビデオの感想でも。<ロルカ、暗殺の丘>を見ました。主演は多分アンディ・ガルシアです。この作品、反ファシズムを謳うけっこう政治的な作品でして、スペイン内乱〜フランコ独裁期を扱いながら、人々の自由や表現が如何に軽んじられ、如何に恐怖と不安に慄き、如何にその下で反抗心を抱きながら生きていたかが描かれています。

 ただ、この作品はそんなところを見ていてもあまり面白くありません。けっこうステレオタイプの主張なので、どこでも見ることが出来るからです。それよりもこの作品のすごいのは、情熱の赤、鮮血の赤、街並みのレンガ色、そして風化のセピア色、それらが絶妙に交じり合いながら、美しい世界を描き出しているのです。

 多分世界に国の数は数在れど、ここまで赤でイメージされる国って無いんじゃないでしょうか。グラナダが舞台ですが、アメリカ映画なので、外から見るスペインっていうのが、見事に描かれていまして、そこらは日本人でも同じイメージでいられるようです。

 ストーリーの方は、奇を衒うあまり最後は少し強引過ぎないでしょうか、まぁその分だけ意表をついた結末にはなっているのですが、少し伏線が少なすぎです。ただ、忘れさせられていたあの伏線が、こんな所で蘇って来るとはやられたって言う感じですけどね。切ない終わり方ですけど。

 ところで、先日難民の話書いたら、頃よい具合に問題おきていますが、もう一寸経って、落ち着いたらコメントでも。

18日(土)
 う〜む、今回は少し腰が長引いている。本当に4年前の再現かも、まずい。。。取り敢えず、今回の社経史の報告とか予定がなくて良かったと安心しつつ、明日の友人の結婚式がちょっと心配。腰痛い時って、長時間座位をとり続けるのが辛いんですよね。披露宴で、そんなにチョクチョクトイレに抜ける訳にもいかないだろうけど、無理して式台無しにしないように気をつけなきゃいけないし。。。まぁあんま酒は飲めそうに無いな。

 話は変わるが、最近母方の祖母からよく葉書が届く。あまり上手くもない水彩画を絵葉書にして、野菜は食べてるかとか、健康に気をつけろとか、酒飲み過ぎるなとか、本当にほぼ守れていないことばかり書き連ねてあるから反省頻りである。そう言えばこの祖母も腰痛患っていて、母も腰痛だから、そんなとこばっかり受け継いでしまったらしい。ちなみに、この祖母−母−自分というラインは、雨が降る少し前になると頭痛がやってくるという点でも似ている。女系ラインだから妹にそんな症状は出そうなものだが、腰も頭痛も平気でピンピンしているから、ちょっと悔しい。

 そう言えば昨日ワールドカップの23人が発表された。まぁ吉原は半分以上冗談だったから良いとして、波戸が外れたのは納得できません。まぁ中村俊輔は小野と比べれば仕方ないがと思いますが、どうして波戸が外れるんじゃぁ〜。マドリードとノルウェーで負けたのが、それなりにトルシエ的にはショックだったらしいのは分かりますが、中山に加えて秋田までを代表復帰させたのは、かなり自身の無さの表れのような気がして仕方ありません。まぁ、チームがガタガタになっている状況下では、経験ある者が重しとなるのが良いのは分かりますが、じゃぁ何故こんな最後まで、怪我人や病人が出るほど選手達を最後まで競わせたのでしょうか。最初から中山や秋田を、チームの重しとして置いておき、そんなチーム作りをすれば良かったのに。あ、自己主張のみ強い久保を外したのは評価します。

 それに、代表外れた者達のためにも、トルシエは日本国民に対して会見をすべきだったと思います。それが代表監督に選ばれているものの責務ではないでしょうか。 記者会見後でもベルギーvsフランス戦は見られたはずで、マスコミ逃れの無責任体質は何とかならんのでしょうか。ワールドカップ後の代表監督には、もっとファンサービスのある人を望みますね。まったく。

19日(日)
 披露宴って言うのは、場数をこなすと慣れてくるものである。まぁ、あくまでも参列者としての話なんですけどね。あ、この辺が他と違うオリジナリティだなとか、ここのバックに流す曲は拘っているなとか、色々と興味深い。そう言えば披露宴から二次会へって言うコースは初めてでした。二次会は披露宴と違って後輩達もいたりしますから、また知らないメンバーも多数参加しますから(披露宴は友達同士のテーブルですからね)、なかなか趣きも違って、楽しませてもらいました。

 そう言えば、今週の金曜の日テレて、〈サトラレ〉を放送するそうです。まぁテレビのロードショーだと、CMがうざかったりもしますが、近年の邦画では一番涙できる作品ですので、是非是非余裕のある方はご覧ください。

 ちょい腰痛いのがぶり返したりもしましたが、水曜辺りからボチボチな感じで徐々に復帰したいと思ってます。

21日(火)
 今日は〈サファリ殺人事件〉の話でも。映画のタイトルよりも原作の〈そして誰もいなくなった〉byアガサ・クリスティのほうが通りが良いと思いますが、この作品を見ました。〈そして誰もいなくなった〉の4番目の映画化で、僕自身も3つ目(〈姿なき殺人者〉以外の)の鑑賞です。取り敢えずこの作品、原作を越える映画化に出会ったことなく、今回もやっぱりいまいちだったって言う結論です。アガサの意向を反映して、〈そして誰もいなくなった〉の映画化の場合には、最後のクライマックスが、原作とは必ず異なることになっているのですが、そのおかげもあって、原作を越える落し所は、脚本家泣かせのようです。

 ところで、僕はアガサクリスティに中学末〜高校の始めにかけてはまっていました。読んだのはマープル物の殆どとポアロ物の一部。それに短編集くらいなのですが、どちらかと言うと探偵を使いこなすのが上手かったアガサにあって、この作品は異色、そのくせ彼女の作品中1・2を争う作品であるのは論を待たないのではないでしょうか。何はともあれ、原作と同じ離れ小島を舞台にした初めての映画化が、一番雰囲気は近かったのかもしれません。今回は舞台がサファリで、なんか一寸ズレてるんですよねぇ。

 アガサの原作に匹敵する映画化は、〈オリエント急行殺人事件〉にしろ〈検察側の証人〉にしろ、色々と成功してるのもあるから、単に映画化が下手なだけの気がするんだがなぁ。マザーグースの世界って言うことで、横溝の〈獄門島〉にも通じるものがありますが、その辺りの意味合いがいまいち納得できがたい。小説のときは気にならなくても、映像となってしまうと、そこらがクローズアップされる必然性が肯んぜない。

 そう言えば話は少しずれますが、夏樹静子によるパロディ(っていうか、アガサのをモチーフにした作品)で、〈そして誰かいなくなった〉ったという作品がありますが、これもなかなかの珠玉の出来です。そう言えばこれが書かれた1982年は中曽根内閣が誕生し、ホテルニュージャパン火災が発生した年。もし未見の方はアガサの後に一読を。

24日(金)
 ちょっと鯨の話から。豚バラベーコンって言うのはなかなかくどいものでして、そのまま加熱せずにいただく訳にはいきません。その点鯨ベーコンの微妙な油加減は、ガンガンに冷やした辛口の日本酒、もしくはあまり香りが強くない麦焼酎辺りと非常に親和的で、居酒屋なんかで見つけてしまうと、とっても嬉しくなって頼むのを欠かさない。

 また、鯨の竜田揚げ。これって周りの同年代の奴らに聞くと、給食で出た奴らって言うのはかなり地域差があるらしく、関東辺りの出身者は食べていないが、うちら辺とかは食べているから、1980年代初頭に小学生だった辺りが、ちょうど鯨を給食として食すか否かの転換点に位置しているらしい。僕など、ほ〜んの時々スーパーなどで鯨の赤身を見つけると、ちょっと値段は張るけど頑張って買い込んでしまう。

 そんな人間なので、鯨をめぐる教条的な欧米列強の主張に対する感想は、粗方予想がつくであろうから別にコメントしない。機会があったら赤犬も食べてみたいと思っている人間なので、ワールドカップに関する偏狭な韓国批判へのコメントも大概予想がつくであろうって言うくらいである。

 そんなことより今回のIWC下関総会を見ていた感想として、米露が提案した先住民捕鯨枠を、否決に持ち込んだ日本の手腕に感心してしまった。先住民も鯨を取らせるなというのに賛成をすると言う意味ではなく、対外交渉って言うのはこうやってやるんだ、って言うっか、現在の日本にも対外交渉が出来る人間が、しかも官僚が存在するって言う事実を見せ付けられた驚きである。

 そう言えば日米通商交渉の時の、通産省の粘り強い交渉も思い出した。日本にも優秀なネゴシエーターは、官僚の中に幾らでもいるのではないであろうか。現在の外務省を、パスポート及びビザ発行庁として確定しておき、全く別の、省庁間の人材交流のある組織を作った後、外交交渉を各省庁出身のタフな人材で(英語も読めない単なる人事異動ではなく)賄わせれば、四流と見下される日本の対外関係も、幾ばくかどころではなく改善されるのではないであろうか。

 で、ここらで旧奉天の領事館への難民駆け込みについて。事件前の僕自身の定義に従えば、まず彼ら(及び韓国にいる親族)が政治難民なのか経済難民なのかが重要となる。しかしこのケースは極めて困難なことに、経済難民として亡命しようとすること自体が政治難民化するという側面を持っている。しかし、そのような消極的な政治犯(もし彼らが積極的に反体制運動をしていたのならこの後の議論は無意味だが)は、政治体制自体に主体的に反抗しようとして迫害されるわけではなく、ある意味了解事項としてのルールからの逸脱と言う「犯罪者」の側面で追われるわけであるから、罪刑法定主義的に罰せられる限りは、我々の「常識」からはおかしなペナルティでも(例え死刑であっても)、保護すべきではないと思う。彼ら(及び先に脱出した親族)の罪状は、飢えに苦しんで逃散をすると言うものであり、少なくとも現政治体制と政策を是認する限りは、それが犯罪と認識されているならば干渉すべきではないと思われる。

 勿論、例え罪刑法定主義に則っていても、その法自体が何らかの上位概念的なルールを逸脱していれば、その原則は適応されない。で、今回の5人の場合、先に親族が韓国へ亡命したことにより、一族が強制収容所へ送られると言う背景がある。ここで、犯罪が個々人ではなく一族のものとして処理されると言うのは、北朝鮮にあっても一般的(全ての犯罪に適応される)な罰則形態ではないであろう。つまり、今回のケースは偶然にも難民として認定すべきであるが、北からの多くの難民の場合は、追い返しても構わないと思われる。

 あと、そもそも人道的な解決と言うのが理解できないが、刑罰の体系は国によって異なっている。例えば、日本において安楽死を行う医師は殺人犯であるが、それをオランダかベルギー政府が、人道的観点から保護したらどうなるのであろうか。人道的観点と言うのは聞こえが良いし、感情的には肯定したい側面も強い。しかし、ある国における「人道」を、他国に押し付ける事は、鯨や犬を食べるなと言うのと同レベルに過剰な干渉ではないであろうか。

 ちなみに、中国武装警官による治外法権侵犯は、偶然(それを撮影しようとしたわけで無いという意味で)の映像により明白であるので、その後の中国に外交上手で有耶無耶にされていることが問題であるが、それはまた別の話である。少なくとも上記の判断は、彼らの主張を聞いて、主体的に判断しなければわからない問題である。

30日(木)
 ウッディ・アレンのムービー〜♪見たあとだから、そう〜なぜか〜♪っと、ちょっと永井真理子風に始めて見ましたが、ウディ・アレンの〈トラブル・ボックス〉など見てしまいました。1994年のTV作品ですが、元の脚本は始めてのブロードウェイ作品らしいですから、その辺の時代性を考えながら見た方が良いでしょう。別に旧奉天の総領事館の事件をコケにしている映画ではありません。主演はウディ・アレン、助演にマイケル・J・フォックスが出てたりします。

 そう言えば1994年といえば、マイケル・J・フォックスは既に自身がパーキンソン病であるということを認識している時期ですね。パーキンソン病患者のうち若年性は10%程度と言うように、高齢者に比較的多く見られる病気ですが、童顔な演技を続けてきた彼が、この病に冒されたというのはなんと言う運命でしょうか。彼は1998年になって病状を公表し、パーキンソン病治療研究のために私財を投げ打って朗報を待っています。そう、ゴールデングローブ賞の最優秀主演男優賞の授賞式に向かう最中、震えが止まらなくて、病気を隠し通せないと悟ってからです。

 さて、話を本題に戻しましょうか。舞台劇なので、基本的にとある共産国の大使館内だけでストーリーが進行しますが、アレンのナンセンスさが如何無く発揮されていて、何度もほくそ笑ませてくれます。アレンのコメディーに拒絶感が無い人は、楽しめるのではないでしょうか。アメリカ人が自己をとことんデフォルメする、という彼の作品は、冷戦時代における「善良」なアメリカ人のある側面が見られて、なかなか興味深いものがあります。「善良」なアメリカ人とアラブ・欧州・共産との交錯が、テンポよく描かれています。

 あと、劇中に使われてるエキゾッチィックな音楽が、なかなか作品の雰囲気とマッチしていまして、絶妙な取り合わせでしょう。ただ気に入らないのは、アレン以外の役者が、マイケル・J・フォックスも含めて、かなりくすんでいる点でしょうか。アレンの奥さん役のジュリー・カブナーなど、けっこう良い演技しているのですから、もっとアレンを抑えても良かったと思います。

31日(金)
 過去の名曲って言うのは、新たに別のシンガーの手に渡り、アレンジを変えて再ヒットすることも多い。再ヒットしないまでも、カップリングやアルバムの曲として、何度も歌われることも多いものである。しかし、歌の歌詞って言うのは、極めて時代の制約を受けているものだから、どんなに頑張ったって、カヴァー出来ないものたちも存在する。

 次はPrincess×2の名曲〈M〉のワンフレーズ。「あなたの声、聴きたくて、消せないアドレスMのページを指でなぞっているだけ」。僕らの世代には、切なくて忘れない名曲の一つですが、今時彼氏の電話番号なんて勿論、携帯に入れてしまっているでしょうし、用心深くてバックアップとっている人間でも、PCに入れているくらいでしょうから、手帳の住所録を指でなぞるというのは、かなり想像を絶した世界であるわけです。

 次は中島みゆきの隠れた名曲〈ローリング〉の一節です。「9桁の数字を、組み替えて並べ直す。淋しさの数と、同じイタズラ電話」。ちょっと待ってくれ、これは多分昔、東京の電話番号が03−○×△ー□■◇○だった頃の話でしょう。だけど現在、固定電話は東京・大阪を含めて10桁になっているはずですし、恋人に電話するときは、多分携帯へだと仮定すると、既に11桁の世界へ突入しています。

 このように、特に通信関係の歌詞って言うのは、手が付けられない位の状況でして、何とか復活させてもらいたいと思う曲も多々あるのですが、どうしようもないのでしょうかね。名曲とは言わないまでも、国武万里の〈ポケベルがならなくて〉なんかも、この部類でしょうか。ライブ行きましたけど。

 あと、実はあまり気付かないですけど、時代性がとても表れている曲として次のようなのもあります。まずはB’zの大ヒットする前の曲から〈BE THERE〉です。「日変わりでとびこむ、どこかの国の新しいrevolution、自分もかわらなけりゃと思いはじめれば、いてもたってもいられないね」って言うとこなんて、1989年の東欧革命(ビロード革命)における、怒涛のようなあの報道を背景として、初めて成立する歌詞ですからね。

 あと、年代が入っている歌詞は致命的ですねぇ。織田裕二の〈歌えなかったラブ・ソング〉なんて好きなんですけど、「ナインティーズのラブソングを歌おう」なんてフレーズ入れられると、カラオケですら歌いづらいですよね。classの〈夏の日の1993〉に至っては、年代変えた替え歌でも、語呂が悪くて歌い辛くなってしまいました。それに、ミレニアムを歌い込んだ曲なんかも、ほんの少し前なのにちょっと気恥ずかしさが漂います。ドリカムの〈snow dance〉の「天球儀が2000を、かたどったウィンドー」「1900年代最後の夏は行って」と、完全にミレニアムを迎える歌です。

 まぁ、中島みゆき好きの友達と、明日カラオケへ行くことになったので、何となくそんなこと考えていました。ではまた。