2005年4月

3日(日)
 イラクでアッバース朝下の西暦だと852年に建てられた、世界に3つしかない螺旋状ミナレットが破壊されたという。ミナレット(尖塔)という形状から、アメリカ軍側と反米武装勢力側が、共に狙撃主を置くための軍事上の要衝になっていたために、何者かが爆破してしまったという。今のところは米軍側の仕業なのか、イスラム側の仕業なのかは分からない。しかし、人類の歴史遺産として貴重で唯一無二の存在であったのみならず、タリバンが破壊したバーミヤンの石窟でもそうだが、観光資源として紛争後の復興に欠かすことの出来ない存在でもあったはず。それがこうも容易く破壊されていくというニュースを目にすると、なんとも自分の無力さが遣る瀬無い。

 昨夜の大きなニュースといえば、ローマ教皇ヨハネ=パウロ2世の死であろう。在位26年という歴代2位の長さであったという。旧教徒ではないし、キリスト教徒ですらないので、宗教的にはこれといって何の感慨もない。ただ、彼の場合はポーランド出身として、ポーランドの連帯形成を後背から支援し、東欧革命からソ連の崩壊へという大きな時代の流れの中で、抑圧と戦う民衆を精神的な部分で支えた偉大な人物でもある。抑圧的な東欧共産諸国はいずれ崩壊するにしても、なぜその崩壊のうねりがポーランドから生じたのか。そのキーマンの一人であったのは間違いない。ご冥福をお祈りします。

 しかし、次のローマ教皇を選定するためには、全世界から枢機卿を呼び集め、一部屋に集めて鍵をかけ、合意が得られるまで互選選挙みたいなものを繰り返すらしい。この「鍵をかける」というラテン語から、コンクラーベと呼ばれているとか。なんでもヨハネ=パウロ2世を選ぶときには3日間もコンクラーベをやっていたとかで、正しくそれは根競べだな(笑)いやはや、おあとがよろしいようで。

5日(火)
 尊厳死をめぐって超党派の議員があつまったとか。前々からの持論なんですが、尊厳死は是非とも認めて貰いたい。末期医療として、色んなチューブや管や点滴やを繋げられて、なんだか人工的に生き長らえさせられ、回復の見込みも無いのにただただ延命されているって言うのは身震いがする。回復の見込みがあるならば、医療技術の粋を尽くして助けて欲しいが、駄目なら駄目で、ちゃんと告知してくれれば覚悟を決めるつもりである。無駄な延命されて告知をされないって言うのが一番嫌だ。自分の死期が分かっていれば、死ぬ前に色々と伝えたい言葉とかあるだろうし、死ぬ前に会っておきたい旧友とかもいるだろう。なんか、そういう最期って自分で理解しておきたいと思うんですよね。実際告知されたら、無茶苦茶ツライだろうけど、でも後悔するよりはその現実と向き合いたい。それって許されても良いんじゃないでしょうか?

 アメリカでは大統領まで巻き込んで尊厳死をやっていましたが、本人に一番近かった夫の気持ちって分かります。多分親だったら、奇跡を信じてでも尊厳死なんて認めたくないんだと思う。っていうか、認められないんだと思う。うちの親も、多分尊厳死なんて認めてくれなさそうだし。アメリカのケースは、親と夫の意図が違ってしまったのが悲劇ですよね。どちらの気持ちもすっげー共感するし、自分がそれぞれの立場だったら、多分同じ主張をしているんだろうなぁっとも思う。やっぱり、こういうゴタゴタをなくすためにも、ある程度の社会的なルールって言うのは作っておいた方がいいと思います。その時に個人的には、尊厳死を認めてもらい、古い言い方で言うならば畳の上で死ぬことを認めて貰いたい。

6日(水)
 韓国が不法占拠している竹島ですが、韓国側が事情を誤解している理由が何となく分かってきました。第2次日韓協約によって日本が韓国の外交権を奪ったのが1905年、その同じ1905年に竹島は島根県所管と決定されているので、延長線上の措置であったという誤解が広まってしまったようです。ところが、竹島の件は1905年1月、一方で第2次日韓協約は1905年11月、前後関係も含めて、全く両者は関係無い出来事なんですよね。 この全く関係無い2つの出来事が、李承晩ライン以降の国威発揚の際に、韓国併合への一里塚として位置づけられてしまったことに起因しているらしいです。韓国で騒いでいる人たちには、こういう事実がちゃんと伝わっていないんじゃないですかねぇ。外務省の説明不足が原因のような気がします。

 日本と韓国で、合同で教科書を検証するとか言う話がありましたが、どうなったんですしょうか。お互いに事実を一つ一つ検証していけば、古代とかだと史料解釈が難しそうだけど、近代だったら比較的容易に合意に達するような気がします。高句麗好太王碑文の解釈とかもめていたような気がしますが、あぁいう顕彰碑の類っていうのは扱いが難しいですからねぇ。当時の倭国が何を指しているのかもよく分からないし、倭国の勢力範囲すらよく分からないし、ある時点の倭国が別の時点の倭国と同一かも分からないし、そういう部分での統一的な見解とかあまり意味が有るとは思えませんね。ただ、近代は比較的史実が容易に分かるので、そういう実証研究は一緒に出来るのではないでしょうか。

7日(木)
 久しぶりに映画の話でも。もはや旧聞に属しますが、是枝裕和監督の〈誰も知らない〉を見ました。柳楽優弥がカンヌ最年少主演男優賞を受賞してクローズアップされた作品と言えば、あぁと思い出すことでしょう。母親役にYOU、長男役に柳楽優弥です。さて、非常に深遠な作品でして、何から語ったら良いのか戸惑いますが、モチーフとなった事件は1988年、まさしく日本がバブル経済で踊る真っ最中に起こった、〈西巣鴨子ども置き去り事件〉というものです。あくまでもモチーフにしただけで作品とは全く異なりますが、こちらの方から見てみましょう。当時はセンセーショナルに騒ぎ立てられたらしいですが、残念ながら僕の記憶には残っていません。父親違いの5人兄弟姉妹を持つシングルマザーが、5人の子どもの戸籍を届け出ていなかった。そのうち1人を死亡させ、遺体を押入れに隠しておいた。そして母親は別の男の愛人となって家を出て行き、9ヶ月も子ども達だけの生活が続いた。残った末の妹が、長男の友人に虐待されて殺され、遺体が雑木林に埋められた。このように淡々と事実を連ねるだけでも、かなり悲惨な事件だとわかります。

 バブルの喧騒とは別のところで生じた、異常な事件だったんですね。それを是枝監督が、不況下の人々のメンタリティに受け入れられる作品へと作り変えているのが見所です。それによって異常な事件から、人々の心に訴えかける物語へと変化を遂げました。社会における死角、都会の喧騒に埋没する個、自分勝手な母親、存在感さえない無責任な父親、偽善的な周りの大人たち、そういう話は沢山されているでしょうから、今更ですしまぁ止めておきましょう。

 この作品に人々が惹きつけられた要因って、やはりドキュメンタリータッチだからだと思います。フィクションなのに、ノンフィクションだと思って見入ってしまいます。その一番の理由は、効果音を作品中盤まで全く(自然過ぎて聞き逃していたら失礼)入れていないんですね。こんなに日常的な音だけで流れる作品って言うのが、とても鮮烈だったんですよね。ドキュメンタリー以上にドキュメンタリーっぽかった。しかし、それに飽きが来初めているなぁって感じた頃に、これまたいい具合に静かな効果音が入れられるんですよね。それほど大きな抑揚があるわけでは無いのですが、なにか不思議な流れの中に身を委ねる、そういうつくりになっています。そして深遠なメッセージを持ちつつ静かなリズムにのって作品が進む中で、最後にモノレールの車中、イメージソングでもあるタテタカコの〈宝石〉がグググググッと迫ってくる。このモノレールの車中と言うのがいいですね。柳楽優弥の心情的に、やはり落ち着き、振り返るこの場所でこその〈宝石〉でしょう。この作品で明け方が描かれたのって、この最後の方のシーンだけですよね。

 それと画面全体の色合いですね。これもドキュメンタリータッチ、しかも70年代くらいのドキュメンタリーを思い出させるような画面の粗さがあります。ハイビジョンだ何だという世相をあざ笑うかのように、美しい粗さです。そして全体に暗い。昼間の日の光を浴びているのに、言い知れない薄暗さがある。先ほど述べた最後の方の明け方のシーンまで、ひたすら薄暗いんですよね。もちろん明暗のコントラストはあるのですが、明るいところでも暗さが残っている。それがうまい。8ミリで撮影したんじゃないだろうが、それを思わせるような効果がある。映画ってなんだろう。日常の中のドラマを描き出したこの作品は、そのテーマだけでなく、その手法と言う意味でもいろいろと考えさせられる作品です。

 あと、演技に関しては柳楽優弥は少し反則です。1年かけて撮影しているうちに、声変わりしてしまったらしく、それが効果的に活かされている。子どもから思春期へと移っていく様子が、真面目な長男から、変声期の独特の艶ややかな大人っぽさへと、いい演技になり過ぎている。同じ演技力はもうできないんじゃないだろうか。そして残りの弟妹たちの演技も素晴らしい。柳楽優弥もそうだけど、目がいいんだよなぁ。母親と会っていた時の目と、置き去りにされた後の目が違う。これは監督の指導なんだろうか?そしてYOU。YOUって元々好きなキャラなんだけど、こんなに演技が上手かったなんて知りませんでした。すごくワガママで気分屋なんですよね。でも多分これはB型だな。自分もB型だからわかるんだが、典型的なB型なキャラで、すごく無責任な母親なんだけど共感してしまうところもあるんですよね。憎みきれない役柄、どうして子ども達が彼女を慕うのか。たぶんもっと無茶苦茶な母親であっても、あのシチュエーションなら子ども達は慕うんだろうが、観客にまでそれを共感させるキャラを演じなければいけないという意味で、YOUも難しい役柄だったんですよね。それをとても上手くこなしていましたねぇ。

11日(月)
 金曜には今年2回目のお花見をやっていたのですが、上野公園は見事なまでの満開で、こんな上野公園は初めてでした。だいたい満開当日っていうのは行けないんですよね。満開になった当日っていうのは、まで花びらはしっかりと花弁にくっ付いていまして、見事なのに散ってこない。この散ってこない中での、満開の桜っていうのはちょっと新鮮な発見でした。散り始めた後のヒラヒラした花吹雪の中でのお花見の方が好きですが、あぁいいうガシッとした櫻木っていうのも、なかなか乙なもんです。

 ところで、染井吉野の寿命っていうのはだいたい50〜60年と言われていますが、戦後に植林した染井吉野たちがそろそろ寿命を迎え始めていると言う話です。新たに染井吉野を植えるのか、それとも別の櫻の木々を植えるのか、これから各地で色々と考えていかないといけないでしょう。植える桜によってお花見シーズンにも変化が生じるので、これは国家的な大問題に発展するかと思われます。ただ、全国的に染井吉野にするよりも、各公園ごととかで櫻の違いがあった方が、いまよりも長くお花見を楽しめるので、そちらをお薦めしたいんですけどね。ただやはり染井吉野は日本人に愛され過ぎてしまっているので、なかなかどうしたもんですかねぇ。ただ、染井吉野も開発から時期がたち、かなり生命力が弱って来ているらしいんですよね。重点研究分野として、お花見用の桜を急遽新種開発するっていう方法も有るかもしれません。いずれにしてもなかなか問題です。

 ところで、中国各地での反日デモですが、当初は送迎バスまで用意して企画したものだったようですね。ところが大学生数百人〜2000人規模で始めた各地のデモも、農民やら労働者が集まっていつの間にか1万人を超える規模になってしまうとか、この辺に統制が利かなくなる危険性とウラハラな状況が見て取れます。止めてあった日本車を攻撃したら、サウジアラビアの公用車だったり、日本料理店を襲撃したらみんな中国人経営者の店だったり、今のところは笑い所満載なのですが、そうとばかりは言っていられない状況でもあります。対華21か条要求とヴェルサイユ講和に反対した五・四運動の記念日が近づくにつれ、中国国内の反日運動は盛り上がるでしょうからねぇ。

 もう一つ今回の反日デモに絡んで懸念されるのは、経済状態も良くて安定していた上海で日本人負傷者が出たこと。中国共産党の御膝元の北京や、貧困が著しい内陸部での反日デモならば大して驚かないんですけどね。上海は僕も気軽に昔旅行した地なんですが、ちょっと困った事になってきましたねぇ。政治軍事的な大国としての元々の自尊心に、経済的な発展での自尊心が加わって、政治大国化への道を模索しはじめた日本が疎ましく感じられるようです。しかし、中国共産党の官製デモと言っても、いつ暴発するか分かりませんからねぇ。麻薬は副作用が大きいものですよ。

 あと今回の騒動で意外だったのが、マスコミ各社が比較的事実を報道しているという点です。中国批判めいた記事を書くと、中国国内での取材規制が敷かれるため、これまで中国関係のニュースの場合には、CNNとか、ワシントンポストとか、タイムズとか、その辺と比較しつつニュースを見る必要があったのですが、今回は海外メディアと同じ様な記事が書かれていて、それにまず驚いてしまった。中国当局によるマスコミ規制の様子まで報道していましたからねぇ。一体全体どうしちゃったんでしょ?まるで報道機関みたい。

12日(火)
 昨日書いたように、中国共産党が国内の不満を反日教育でモルヒネ状態にしているのと同じように、韓国の盧武鉉大統領が政権行詰りで反日政策に転換したのと同じように、日本国内でも国内の不満をナショナリズムに向ける動きがあります。その典型的状況として顕在化しているのが東京都の石原知事の政策なんですよね。卒業式・入学式のシーズンを終えましたが、石原都知事は国旗国歌を出席者に強制しようという動きに出ていました。今日はちょっと気になっていたので、この問題を取り上げておきましょう。

 まず問題は2つに分けられるのですが、1つ目は生徒・保護者等に対する強制の問題。2つ目は教師に対する強制の問題です。1つ目から考えますと、基本的に公立小中学校(私立や義務教育以外はまた別)にあっては、生徒や保護者の思想信条に踏み込んで強制を行ってはいけない。宗教的理由で歌舞音曲が禁止されている場合もあるでしょうし、偶像崇拝を禁じられている人もいるでしょう。日本が憎くて憎くてたまらない人もいるでしょう。そういう人も含めてすべて、平等に教育を受ける権利を持ち合わせていますし、思想信条の自由は守られるべきです。国旗・国歌・校歌・制服・頭髪等、教師への礼、式典への出席まで含め、更には全ての校則等まで含めて強制すべきではない。保護者が子どもにどこまでさせるかという問題であって、その基準は学校と教師は持ち合わせるべきではない。公立小中学校が強制できる事は、教育を受けさせることと、法律に基づいたルールだけであるべきだと思っています。

 2つ目の教師に関しては若干難しい。彼らは公務員であって、原則としては都の方針に従う義務がある。ただし、その場合にでも最大限彼らの思想信条は尊重されるべきでしょう。式典に出席しない仕事を回すとか、有給休暇を使わせるとか、彼らの思想信条を全うさせる方法はいくらでもある。それをわざわざ、嫌だと言っている音楽教師に国歌を演奏させたり、イスラム教徒の担任にバチカン市国への修学旅行を引率させたり、ヒンドゥー教徒の校長にドナドナドーナを歌わせたり、不受不施派の教師にお礼をしたり、そういう事を強制する社会は余裕が無い。そんな事わざわざしなくても、もっと別の選択肢があるだろうに、無理に教師の内面に踏み込んで、思想信条を強制させる必要は無いのではないか。教師が自己の思想信条を、生徒に対して強制しようとした場合だけ、布教しようとした場合だけ罰っせばいい。そう思いません?

18日(月)
 たまにはおススメの漫画の紹介でも。昔スピリッツっていう週刊誌がありましたが、アレに連載されていた玖保キリコの名作〈バケツでごはん〉、略称〈バケメシ〉です。この作品の何が面白いかって、上野原動物園っていう架空の動物園を舞台にしているのですが、動物園の動物たちは、毎日エンターテイナーとして動物園で働いているっていう設定なんですね。サラリーアニマルたちだから、皆通勤しています。そのため、昼間の顔と夜の顔は別になっています。主演はギンペーというペンギンなんですが、こいつがまた可愛いんですよ。ちょっと大人ぶった子どもみたいで、何か親近感が沸いてくる庶民派ペンギンです。

 で、ギンペーの周りには他のペンギンたちや、キリンやパンダやオオカミや、色んな奴等がいるのですが、基本的に玖保キリコなので、動物占いのあのキャラクターたちをイメージしてもらえば分かりやすい。こいつらが1人づつ、とってもキャラがたっていて可愛いんですよね。で、今日は自分たちが注目されたかどうかとか、閉園後に一杯引っ掛けながら話し合ったり、愛くるしく見られるように練習したり、恋の駆け引きありと、とってもシュールで愛すべき作品です。

 あぁ、なんでこんな話をしてるかと言うと、盛岡動物園でキリンの赤ちゃんが公開されたらしく、その名前を公募しているとかで、やっぱりメスのキリンは〈フラジー〉っていう名前が一番似合っているよなぁ、そう思索に耽っていたからですけどね。キリンってとても目がウルウルして乙女チックなのですが、あれがフラジーちゃんの印象にピッタリなんですよね。両親兄姉ともに〈リ〉で始まっているから、それに外れるのは駄目なんだろうけどさ、やっぱメスのキリンはフラジーだろ。他の名前は許し難い。

20日(水)
 そういえば今年は野球の話をまだしていなかったなぁ。なかなか中日は調子よく、連覇は無理じゃなかろかと思っていたのですが、その可能性もあるようで何よりです。岡田阪神になって軽んじていたのですが、今年は阪神との関係が大切になってくるようです。落合は昨年とは一転して、大型補強にも乗出しましたからね。阪神を倒して日本一を目指して貰いたいものです。ただ両チームとも、川上・井川というエースがいまいちですので、早く復活した方が一歩リードするという感じになるのでしょうか。しかしどちらのエースも髪型に癖があるよなぁ。

 ところで、昨年にもましてジャイアンツ戦の視聴率がグダグダになってきていますね。すでに4月にして8.8%だとか、8.9%だとかを叩き出しているようで、民放各社は大赤字なことでしょう。セパ交流戦もあって、値下げせずに買ったらしいので、視聴率争いも加わって、責任の擦り付け合いでもしているでしょうか。さらに今年から観客をより実数に近づける(入場者+シーズンシート購入者)ことにしたようで、各球場の客の入りの無さが一目瞭然となってしまいました。ほぼ毎日あるとはいえ、どの球団もこんなにも観客が入っていなかったんですね。

 せっかく昨年は様々な改革をする好機だったはずなのに、結局はセパ交流戦だけに落ち着いてしまったのが敗因でしょうか。だいたい、日本プロ野球機構の会長にしろ、セパの会長にしろ、まだらボケっぽい天下りの人達ばかりですからねぇ。新しいことなんて何も出来るような気がしない。Jリーグなんかは開幕当初のバブルははじけましたが、地道に黒字転換を目指してやっているんですけどね。Jリーグに教えを請うて、真っ当な球団経営とリーグ経営ができるように転換しないと、消滅してしまう日も来るんではないでしょうかね。

 一つにはあの企業の広告費として、ズブズブの経営が出来るというのが諸悪の根源でしょう。3A主体のオーストラリアに連敗した選手たちが、ストやっても、メジャー並み以上の給与を要求して呆れさせられましたからね。落合が1億円プレーヤーになった頃は、とっても夢があったのに、どうしてこんな風になっちゃったんだろう。ジャイアンツですとベンチウォーマーでも1億円プレーヤーですからね。もはや観客をバカにしているとしか思えない水準です。その辺の給与だけメジャーに合わせた結果が、この辺に出てきているんでしょうね。野茂やイチローがメジャーに行ったのも大きいだろうけど、国内要因の方が大きい気がする。

23日(土)
 2002年2月末に、江沢民がベトナムを訪問している。そこで、1979年の中越戦争に関して、江沢民とノン・ドク・マイン書記長らとの間で会談が持たています。江沢民はベトナムに対して、ベトナムの高校教科書等に載せられている中越関係の記述を、侵略国家であり加害者である中国に配慮して、親中的に書き改めるように要請している。また、ベトナム側の外相は江沢民に対して、中越戦争の謝罪を要求しました。それに対する江沢民の回答は、「人間は過去にこだわらず、未来志向でいかなければなりません」というものでした。日中関係も、江沢民という偉大なる先人の言葉に従って、解決される必要があると思います。ふふふふ、素敵なエピソードでしょ?

 まぁそんな中国ですから、いわゆる教科書問題や靖国問題っていうのは、日本の常任理事国入りを阻止するための抗弁として利用されていると断言しても良いでしょう。反日教育を受けた民衆レベルではとにかく、政府レベルではそう考えて間違いない。問題は21世紀の東アジアの覇権を、日本が握るか中国が握るか、それが今回の反日デモに繋がる流れだと思ってよいでしょう。国連のアナン事務総長がうっかりと、日本が常任理事国入りの筆頭候補かのように漏らしてしまってから、中国の反日活動が先鋭化していることからも明確です。

 さて、とは言っても中国(及び韓国)による、日本は謝罪していないというプロパガンダ活動が、欧米各国の論調に影響を与えていたのも事実。それをアジア・アフリカ会議の冒頭で、小泉首相が村山談話を引用する形で、日本は過去に何度も謝罪を行ってきたとアピールしたのは良かったのではないでしょうか(ちなみに、田中角栄以来34回目の政府首脳や天皇による謝罪らしいです)。中国に対して謝罪を行っても、謝罪を受けることが目的ではないので、あまり効果は無いでしょう。それよりも、日本は謝罪を行っているという形を、世界各国に向けてアピールすることこそが重要となってきます。

 また賠償金に関しては、蒋介石が受取を拒否し、毛沢東・周恩来らもそれを引き継いでいる(ちなみに韓国等に対しては払い終わっています)。さらに日本が経済発展をしたために、経済援助やODAという形でかなりの金額を渡していますが、中国国内ではそのことは隠し通されてしまっています。そのことも同じように世界各国に対してアピールする必要があると思われます。沈黙は美徳というのは、日本国内だけの話であって、自己主張を行わないと外国人は認めてくれません。

 先日某先生が、ドイツと比べて日本がなぜ非難を受けるのか、それを考えた方がいいという指摘がありました。確かにドイツの非難のされ方と、日本の非難のされ方を見ていると、日本外交の拙劣さは情けなくなってきます。謝罪と賠償を行った日本よりも、ホロコーストは別として、基本的に謝罪も賠償も行っていないドイツの方が、非難されないというパラドクスは、なかなか参考となるでしょう。ちなみに余談ですが、ドイツが被害国に謝罪や賠償を行ったという都市伝説があります。それはマスコミによる誤報に端を発しているだけで、全く事実とは逆なのにもかかわらず、どうしてこれほど流布してしまったのでしょうか。謎です。

 ドイツ方式はとても明快なのですが、ユダヤ人虐殺の責任をヒトラーとナチスに全て押付けてしまい、ドイツ国民も被害者というスタンスを取ったことです。ここで、ヒトラーがオーストリア出身であったことも影響してきます。そして、ナチスに関係した人物を徹底的にパージした。ところが日本の場合、ナチスとヒトラーに相当する人も組織も存在しなかったために、一億総懺悔という別の道を歩み始めてしまったのに起因している。山本秀行『ナチズムの記憶』などを読んでいると、末端国民は日独それ程に差が無かったと分かるのだが、この辺は権謀術数渦巻く欧州で生き抜いてきた国は、日本よりも一枚も二枚も上手でしたとしか言いようが無い。政府レベルだけではなく、国民レベルとしても老獪ですね。

 と60年近く前のことを話しても、いまさらヒトラーやナチスに相当する何かを作り上げる訳にはいけないので、日本としてもどうすべきかは思案のしどころでしょう。ドイツのように謝罪も賠償も拒否するという選択肢は無いし、実際に日本は謝罪も賠償も今までに行っている。ただ日本に足りなかったのは、謝罪も賠償も行ってきましたよと、当事国以外に対して積極的にアピールする態度ではなかったのだろうか。最初に書いた中国のベトナムに対するスタンスなどとも比較させつつ、日本の行ったことを世界にアピールする外交。それが求められているんだと思うんですよね。

24日(日)
 しかし、本当に桜も散り果ててしまいましたねぇ。切ない。とても切ないので、今日は桜関係のお勧めの曲でも。松たか子の〈桜の雨、いつか〉から。

  桜の雨になる、夢が今虹をかけてく。あなたは空を行く、私を一人にして。
  ありがとうって言ったら、永遠にさよならになる。
  果てしないこの旅で、どこかでいつか会おう。

 別れの曲ですね。桜の散る頃っていうのは、別れがよく似合う。涙とかけて、散る花びらを雨と表現してしまっているのが良いんですよね。落ち着いたメロディーと共に、好きな曲の一つです。続いてWhiteberryの〈桜並木道〉。不細工な5人組のこの曲、松たか子の恋愛の別れとは違って、卒業ソングの一つです。

  ドキドキのちっちゃな種をうえて、誰よりも大きくなって、
  桜舞う、私の心舞う、そこで君と会いたい!!
  ガタガタの一方通行で見えない、100m先の景色、不安、
  雨降ったらカサ、迷ったら聞け!!桜並木道♪

 巣立つ時の期待と不安を、無茶苦茶率直に歌ったフレーズが、小気味いい軽快なテンポに乗って、卒業っていう一瞬をとらえていますよね。でも彼女たち道産子のはずなので、卒業式に桜が咲いている訳が無いんですけどね。まぁ、いいか。桜の曲で忘れていけないのは福山雅治〈桜坂〉ですよね。田園調布にある桜坂、一度行ってみたいんですけど、まだ未体験です。

  揺れる木漏れ日、薫る桜坂。悲しみに似た薄紅色。
  君がいた、恋をしていた。君じゃなきゃダメなのに、ひとつになれず。
  頬にくちづけ、染まる桜坂。抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。
  この街で、ずっとふたりで、無邪気すぎた約束、涙に変わる。

 この曲も冷静に歌詞をながめると失恋ソングなんだよなぁ。しかし「薫る桜坂」っていうのは秀逸だと思いますね。しかしよくも桜坂なんていう地名を見つけてきたと、その点にまず感心してしまうね。ウンナンのすれ違いの恋もよかった。桜坂っていうとすれ違いの恋っていうイメージしてしまいますよね。次も切ない倉木麻衣〈Time after time〜花舞う街で〜〉。倉木麻衣といえばコナンシリーズの主題歌やエンディングでも有名ですが、これも〈名探偵コナン 迷宮の十字路〉という京都を舞台とした映画の主題歌です。

  もしも君に巡り逢えたら、二度と君の手を離さない。
  春の終わりを告げる、花御堂。霞む花、一枚(ひとひら)。
  Time after time君と出会った奇跡♪緩やかな風吹く街で♪
  いつかまたこの場所で、巡り逢おう。薄紅色の季節が来る日に。笑顔で。

 この曲、別れた相手とよりを戻したい、最初偶然会った時と同じように、もう一度偶然出会いたい、そういう曲なんですよね。確かに桜が散っているときって、そういうセンチメンタルな気持ちなるのがとっても共感できます。喧騒の中に一人たたずんだりしたくなりますよね。周りには激しく迷惑ですが。桜といえば森山直太郎〈さくら(独唱)〉も外せませんね。

  僕らはきっと待ってる。君とまた会える日々を。
  さくら並木の道の上で、手を振り叫ぶよ。
  さくら♪さくら♪今、咲き誇る。刹那に散りゆく運命と知って、
  さらば友よ♪旅立ちの刻♪変わらないその想いを、今。
  さらば友よ♪またこの場所で会おう♪さくら舞い散る道の、上で。

 これって唱歌の〈さくら〉のメロディーを織り込んでいて、そのためにさくらが平仮名になっているんですよね。しかし、桜って別れをイメージさせる切なさを持ち合わせるんだけど、それと同時にもう一度会えるかもしれない、そういう期待感を込めた別れをさせてくれるんですよ。雪の中で別れたらこうはならない。あぁ、まだいい桜の曲はたくさんあるんだが、そろそろ酒もいい具合に回ってきたので、それはまたの機会にzzz

26日(火)
 40時間近くが過ぎ、JR福知山線の事故の情報も、色々と整理されてきたようです。原因は調査委員会が詳細を調査するまで分からないでしょうが、今回はJR西日本のいい加減さばかりが目立っているような気がします。まずは、日比谷線列車事故を受けて、急カーブには脱線防止柵を設置するように指導があったはずですが、今回の事故現場はそれを全く無視しています。これが最も大きな、JR西日本の犯罪的なミス。日比谷線の犠牲者たちの教訓が、全く生かされなかったことに激しい憤りを感じる。あれから5年、ただただ無為に過ごしていたのだろうか。

 続いてATS。信号無視には感知するようであるが、速度違反などには対応できない旧式のATSだったとか。今回の運転士に関しては何とも言えないが、運転中の突然死だとか、睡眠時無呼吸症によるケースだとか、運転席に1人しかいない状況では、何が起こるか分からない。それなのに、運転士にもしものことがあった場合の対策が、全くとられていない在来線のいい加減さというのに驚きあきれ果てるばかり。リコールするより賠償金払った方が安上がりだと放言した自動車会社トップがいたというが、それと同じ臭いがする。

 そして何よりも問題なのが、運転士の人選。今の段階では責任の所在が明確ではないので彼に責任を押付けることはできない。しかし、過去に100mもオーバーランして処分受けたり、訓練中にも2度も戒告処分を受けたりしている人物が、1人で580人もの命を預かっていたと思うと身震いする。しかも、今回も40mものオーバーランをして、それが遠因ではないかといわれている。さらにJR西日本に対して怒りが沸くのは、車掌が運転士と口裏を合わせ、8mのオーバーランだったと偽報告を行っていること。こういう腐った体質が、JR西日本中に蔓延していた結果の事故なのであろう。

 それにしても次々と入る、被害者の方たちのエピソードに涙が止まらない。。。なくなられた方々のご冥福を祈るばかり。

27日(水)
 『企業家研究』に投稿していた論文が、ようやくと所謂B判定から、所謂A判定へと移行できてほっと一息ついています。社経史の準備が終わっていないのに、一息つくなと言われそうですが、それでも茶でも啜りながら一服。6月末刊行予定ということで、GW明けくらいから、FDを出したり、校正したり、また雑務が増えそうな予感です。まぁ、こういう雑務は楽しいから良いけど。そう言えば、今年はこれが漸くと一本目の論文、と言うよりも、助手になってから新たに手がけたものとしては、初めての論文っていう感じになりますね。今年もまだ長いですし、もう一本頑張ることとしましょう。

 まぁ『企業家研究』の場合は、年1冊という制約があるので、確かに投稿するのにちょっと躊躇はします。ですが、レフリーで落とされたら、書き直して別の雑誌に投稿しても良いですし、利用しない手はないと思いますね。やはりモラルとして、1年をあけずに同じ雑誌に投稿する訳にもいかないですし、時間空けても同じ雑誌ばかりと言う訳にもいかないですからね。レフリー論文となる投稿先がたくさんあるというのは、なかなか嬉しい話だと思われます。僕の場合は、助手の義務でもある紀要にでも載せて貰おうかと考えていた論文が、手は加えることになりましたが、レフリー論文に化けたのはメッケ物かもしれません。しかし、別の論文書かねば、助手の義務が終われない事にはなりましたが。。。

 しかし社経史の35分というリミットに悩まされています。うぅぅぅむ。