2018年7月 |
4日(水)
台風一過の晴天になっていますが、これではまだ梅雨は終わらないようでして、明日からはまた雨予報です。梅雨明けは週明け月曜くらいになるのでしょうか。
さて、サッカーのワールドカップは2点先取からの3点取られての逆転負けということで、惜しいベスト16という結果となりました。僕の中での日本代表のイメージというのは、いつまで経ってもドーハの悲劇の時でして、あれやこれやの批判やなんかはありますが、あの頃と比べたら大層なもんになったと思います。
対ポーランド戦での負けている状況下でのパス回しを、グループリーグ突破のための戦術として有りか無しかという議論なども起きていましたが、ワールドカップへ出られるか否かだった頃から比べたら、グループリーグ突破の方法なんていうのが議論出来るくらいの状況が来たっていうこと自体がすごいですよ。そういう訳で、サッカーのワールドカップは本大会へ出られただけで感動してしまうニワカファン的には、4年に1度のお祭りを十二分に楽しんだのでした。
ところで職場のキャンパス移転が大詰めを迎えていますが、この夏休みは完全に引っ越しです。例年ならばこの夏の間に研究を進めてしまうのですが、今年の状況はもう既にお手上げ状態です。10年以上にわたって溜め込んだ、様々な資料や図書類の整理などがあり、まったくもって研究に手がつきません。研究者に研究をさせないためには、毎年毎年の引っ越しをやり続ければいいな等と思いながら、紙一枚、モノ1点、色々と考えながら整理しているのでした。
8日(日)
例年、七夕というのは雨模様が多く、織姫と彦星は今年も出会えないなというのが季節の風物詩となっていますが、今年はそれにも増しての大雨となっていまして各地で被害を出しています。まだ行方不明の方も多い状況でして、必死の救援活動をしている人たちには頭が下がるばかりです。福岡は毎年のように豪雨災害に見舞われていますが、今年は西日本全体に大雨でして、気候が一昔前と比べて変わってしまっている状況が気にかかります。
それと並行してオウム真理教の死刑囚達への死刑執行のニュースです。地下鉄サリン事件の時に、僕は伊豆伊東へ向かっていく車中だった話は前にも書いたので今日はもういいとして、今日はこのニュースにまつわる海外の反応に違和感を感じてしまいました。テロリスト達への死刑執行に対して、ヨーロッパなどから死刑反対の声が上っているとのことです。シリア攻撃などをしながら、どの口がそう言っているんだという滑稽さですが、そういう話は脇に置いておいて感じた違和感です。
テロリスト達への死刑執行は正義の実現にならないと、ヨーロッパの死刑反対派は主張しているとの事です。日本において、正義の実現のために死刑執行を考えている人なんていうのは法学部の観念的な学者たちはさておくとして、一般人の肌感覚の理解とははるかかけ離れた世界のお話です。ヨーロッパにおける死刑の議論というのは、法学部の観念論の延長で行なわれているのでしょうかね。日本での一般の人々の理解とは大きく違っているようです。
国家が死刑をしているのは、個々人による報復による仇討ちや敵討ちを代替することによって、その報復の連鎖にストップをかけているというのが一般的な理解ではないでしょうか。もし殺人犯が安穏と余生を暮らしているとなったならば、確実に被害者たちは殺人犯やその家族・兄弟姉妹・親友達などへの報復としての殺害衝動にかられます。前近代のように、そのような仇討ちや敵討ちが発生しないよう、国家は適切に量刑の重さを定めて処罰しているわけです。それは正義の実現でも何でもありません。報復の連鎖を止めることで、社会の秩序を守っているのです。
仮に国家や社会が適切に犯罪者の処罰を行なわなければ、世の中は個々人による復讐と仕返しの連鎖となってしまいます。被害者側にそれを泣き寝いれなどと言うことは言語道断ですから、ひたすら残忍な報復が繰り返されていくだけとなります。そして、国家や社会のようにルール化されていませんから、個々人による復讐は永遠に続きますし、下手したら子々孫々とその復讐や仕返しが続けられます。そうならないためにも、死刑を含め、罪の重さに見合った処罰がなされるということはとても重要なのです。
また、日本の場合には逮捕時の射殺などは行なわれません。ヨーロッパの国々で、逮捕時の射殺などを行っている方が非人道的な行為ですので、日本はフランスやドイツなどのそのような野蛮な行為にたいして、外交的に批判と改善を要求すべきです。逮捕時の射殺が犯罪抑止に繋がらないことは、フランスやドイツの方が日本よりも犯罪が多いことから明白です。逮捕時の射殺ほどに、正義の実現とは程遠い行為はないと思われるのです。どんな未開の国の蛮族たちでしょうか。
13日(金)
今回の西日本豪雨がこれほどの広域の大災害になってしまうとは、なかなか予想もつきませんでした。線状降水帯とゲリラ豪雨の原因が地球温暖化なのか否かは僕には分かりませんが、過去の経験からは降雨予想がしづらくなっているのは間違いありません。そのため、これまでは大丈夫であった治水レベルでは対応不能になり、各所に災害を多発させてしまっています。
ダムの緊急放出が多発したり、京都では日吉ダムのクレスゲートと呼ばれる100年の一度の大雨でも使う必要の無い、一生使われることが無いとされてきた放流口までが開けられ、それによって桂川は危うく難を逃れています。つまり、これまでの降雨予測に基づいて作られた治水対策というのは、基本的に日本全国すべて見直しが必要になってしまっているということでしょう。
公共事業というのは新しい橋や道路を作ることだけではなく、今あるものを維持するだけでも莫大な費用が必要です。河川やダムの浚渫なども丁寧に行なわれていたか検証が必要でしょう。また、コンクリートからコンクリートへの作り替えも不断無く続けないと、日本全国使い物にならなくなってしまうことを思い知らされた豪雨災害でした。
19日(木)
生まれ故郷の多治見のニュースなんていうのを遠く離れて聞くことなんて四半世紀前には無かったのですが、いつからか猛暑のニュースでの常連になってしまっています。今回も40.7℃というなかなかの猛暑っぷりです。市役所の百葉箱のところは、僕も小さい頃によく遊びに行った芝生の上でして、あそこで40℃を超える気温を叩き出しているのかと思うと感慨深いものがあります。
確かに昔から多治見の町は盆地の地形で、かつ街の中心部を土岐川という庄内川の上流部分が流れているために、湿度も高くて夏はかなり不快な暑さになっていました。しかしながら40℃を超えてくるというのは、やはり僕の子どもの頃の実体験としては有り得ない暑さでして、それだけ温暖化が進んでいるということなのでしょう。30年以上前ならば、夏の暑いときにでも百葉箱に隣接する通りを歩いて駄菓子屋に買い物に行っていた記憶がありますが、今の40℃を越える気温の中を同じようなことをしたとしたならば、確実に熱中症へとまっしぐらと言ったところでしょうか。
同じような状況は全国各地似たようなものでしょうから、大人が自分の子どもの頃にはこうだったという経験則は、今の子ども達にとっては殺人的な行為になりかねません。豊田市で児童が学校行事によって熱中症で亡くなってしまうという痛ましい事件が発生していますが、あれなんかも教師の経験則が、温暖化による気温上昇の前では全く役に立たない事例でしょう。経験による知恵というのは大切ですが、世の中の変化の前では経験による知恵が害悪となることも間々あるよなと思ったのでした。
24日(火)
沖縄の電力のことを調べている時に、沖縄やんばる海水揚水発電所なる面白いもの知り、けっこう期待をしていたのですが2016年に失敗と相成ってしまいました。300億円以上の工事費をかけた壮大な無駄としてバッシングされている状況です。しかしこの海水揚水発電というアイデア、このまま灰燼に帰してしまうのは勿体無いんですよね。
やんばるでの海水揚水発電は、夜間の火力発電によって水を汲み上げておき、昼間に揚水発電をするというものでした。一般的には原子力発電の余剰電力を使っての揚水発電をするのに対し、原子力発電のない沖縄ならではの火力発電による水の汲み上げだったわけです。しかし、火力発電の発電コストの高さゆえに、やんばるの海水揚水発電は経営的に見合わないと判断されてしまったのです。
しかし昨今、日本全国、世の中は太陽光発電に溢れています。当初はべらぼうな高値だった太陽光発電の買取価格も、次第に下がっていっている状況です。この太陽光発電と揚水発電をセットで考えれば、海水揚水発電を含めてもっともっと揚水発電の余地は広がっていくと思うんですよね。いや逆に、クリーンエネルギーとしての太陽光発電をより普及させたいならば、揚水発電を増やしておかなければなりません。
この辺についてツラツラ書いた文章が、アゴラの方に「国は揚水発電推進の枠組み作りを急げ」として掲載されましたので、御閑な方は御覧ください。