2021年2月

5日(金)
 僕がこのホームページを始めたのは2001年11月のことであり、すでに小泉純一郎内閣が発足をしていました。だから、過去の記述をあさっても森喜朗内閣時代のことは出てきません。しかしながら、当時もう少し早くホームページを書き始めていたとしたら、かなりボロクソに叩きまくったことでしょう。20年ぶりくらいに、あの頃の不快感がよみがえってきて、非常に不愉快です。40代以上の人たち、同じような人が多いんじゃないでしょうかね。

 あの支持率8%の御仁、目の前にいる人達へのリップサービスに明け暮れ、その背後に大量の国民たちがいることなど全く無視するばかり。目の前の人達の歓心さえ買えれば、大量の国民にどんな迷惑が起きようと被害が及ぼうと知ったこっちゃないという、そのスタンスが非常に不愉快です。虫唾が走る。

 永田町の名町長さんとして、見知った人達の間の調整役としては最適だったのでしょう。しかしながら、それ以外の1億2000万人の日本国民を不愉快にさせることに関しては天才的。見知った人間以外は虫けらだとでも思っているのでしょうか。自分を支持しない無党派の有権者は、寝ていて選挙に行かなければいいとか、余りにも侮辱がひどすぎる。

 ハワイ沖でのえひめ丸事故の際にも、ゴルフ場に出かけて、目の前のスタッフたちには気配りを行き届かせて休みを与え、緊急時にも拘らず人が周りにいなくて対応が採れないという始末。えひめ丸事故ではなく、例えば大震災でも起きていたら、ゴルフ場の施設でボケーッとしている総理大臣とか、いったいどうするつもりだったのか。兎にも角にも、目の前の人たちや見知った人々を喜ばせることに奔走し、1億2000万人の日本国民なんて知ったこっちゃないという態度に腹が立つ。

 こんな支持率8%の御仁は、顔見知りだけの間で役職やっていればいい話であって、それをオリンピックの組織委員長などという、国民どころか世界の人々、つまり森喜朗の知らない大量の人々にまで、意識を働かさせなければならない役職に就けてしまったのが最大の失敗。これまでの多くの日本開催のオリンピックでは、財界人から組織委員長を出していたのにもかかわらず、支持率8%の男を据えた意味が分からない。

 森喜朗自身がラグビー経験者ということで、体育会系の男尊女卑を丸出しにした性差別のメンタリティを、いけしゃあしゃあと世界に向けて発信する人権意識の低さに驚愕する。日本は人権意識が低い国であることを世界にアピールする広告塔になっており、こんな支持率8%が看板をしていること自体が恥知らずといえるでしょう。勿論支持率8%ありますから、この性差別的な偏った認識に拍手喝さいを送る人も8%は居るのでしょうが、本当に不愉快極まりない。
 
 この支持率8%の男の反動で、国民の方を向いていることをアピールして人気を博した小泉純一郎首相が登場したことを思い出すと、本当に日本の恥部であり暗部だったことが思い出されます。

8日(月)
 今年の本能寺の変、良かったですねぇ。これまで見てきた本能寺の変の中で、最もよい本能寺だったのではないかと思います。染谷将太、天才ですね。明智光秀に裏切られた驚きから、納得、そして最期を楽しむ様子まで、本当に良い織田信長でした。かつての神を目指したような織田信長像を一変させ、人間らしい織田信長の姿に心打たれました。あまりにも魅力的な織田信長でした。近づいちゃマズいんでしょうけど、それでも魅力的で近づきたくなる、染谷将太の織田信長は過去最高の織田信長だったんじゃないかと思っています。

 そして、そんな天才織田信長と、それを引き継ぐことになる佐々木蔵之介の秀吉。次第に凄みが増してきていたのですが、濱田岳が演じるこれまた一瞬だけなのに凄まじい存在感を発揮する黒田官兵衛とのワンシーン。山崎の合戦は描かれませんでしたが、狂気を孕んだ天才染谷将太と、これまた狂気を孕んだ佐々木蔵之介、さらに濱田岳。これはもう、シュッとして有能だけれども、あくまでも優秀なただの人である長谷川博己の明智光秀で勝てる気がしない。あのコントラストだけで、山崎の合戦などなくても不要です。やはり大河ドラマの華は本能寺の変ですね。

 そして自分が作り上げた織田信長を、責任をもって殺せとそそのかす濃姫。斎藤道三から最初の夫を毒殺された濃姫が、二人目の夫の毒殺を望むという、長い長い布石の回収は、身震いする感動がありました。ドラマはあくまでフィクションですから、こういう面白いストーリーのフィクションは大歓迎でして、毒殺を促す川口春奈の濃姫がまた魅力的なこと魅力的なこと。織田信長じゃなくても、こういう気質の女性は誰でも惚れますよ。そういう凛とした美しさが良かったですねぇ。

 長谷川博己演じる明智光秀は、途中でちょっと美濃人ぽく無くなったところもありましたが、最後はちゃんと美濃人らしく戻って立派に本能寺の変をやり遂げてくれて安心しました。実際はもっと権力欲にとりつかれてギラギラしていたのかもしれないし、ノイローゼで病んでいたのかもしれないし、そんなことは分かりませんが、ドラマとしてはしっくりと来る良い出来でした。あくまでも最後まで普通であった明智光秀が見えて良かったです。

 また、芦田愛菜が演じた細川ガラシャが子沢山で、現在の皇族も明智光秀の子孫です。そして皇族は織田信長の子孫でもあります。坂東玉三郎が演じた正親町天皇がそんな未来を知ったなら、どのような感想を抱いたのかと思うばかりです。

 しかしながら現実世界に目を向けると、支持率8%の男が、現在は支持率6.8%だとニュースになっていましたが、世の中には女性蔑視と利権に群がる面々で6.8%もいるのかと不愉快な限りです。しかもこの6.8%の意見が通るのだから、民主主義国家とは言い難い酷さです。国民が選んだわけでもないのに、6.8%の支持者たちに祀り上げられて老醜をさらす御仁を見ていると、終わった国だなぁっと思うのです。麒麟は来ないなぁ。

12日(金)
 森喜朗辞任、ちょうど1週間遅かったですね。この1週間で男尊女卑の国であることが赤裸々になって国際的な日本の評価が下がり、オリンピックのサポーター企業の価値も目減りしつづけたわけでして、存在していただけでジャパンディスカウントした度合いは、なかなかなものがあります。本人が辞意を漏らす中、慰留をしていたのが事務局長の武藤敏郎らということで、これまた古いニュースが記憶によみがえってきます。ノーパンしゃぶしゃぶ事件です。

 僕らの世代以上にとって、武藤敏郎といえばノーパンしゃぶしゃぶ事件の大蔵省官房長です。失態や不祥事が発生した際の解決能力の無さは折り紙付きの人物でして、大蔵省解体にまで事態を悪化させた、リスクマネジメントの無さの象徴のような過去は伊達じゃないなと感じます。物事が順調に推移している時には日本を代表する超有能な人物であるのでしょうが、いったん何か問題が発生した際には超無能という、東大生の1つの型ともいえる官僚さんですね。

 話を戻しますが、思い起こせば森喜朗内閣の退陣は2001年4月でして、その退陣劇は僕の修士課程の終わりからD1にかけての時期にあたります。あの頃は、ただただ不愉快さが前に出て、上手く分析して言語化するだけの能力が足りなかったものが、今回の再退陣劇ではとてもよく見えるので面白くてたまりません。20年かけて自分の分析能力が上がったことを実感できるとか、なかなか得られない体験です。

 今回の女性蔑視発言で良く取り上げられる箇所だけではなく、発言の全文をよく読むと森喜朗的なものの本質がよく出ています。それは女性を評価する文言のところに出てくる、「わきまえておられます」という部分です。森喜朗は、「わきまえた」女性もたくさんいると高く評価するのです。勿論ここでいう「わきまえておられます」という語が意味するところは、辞書的な意味などではなく、自分たちの意見に反論することなく追従だけしているような存在のことでしょう。それならば、会議は執行部にとって気持ち良くシャンシャンと終わります。森喜朗のいうところの「話が長い」というのも、実際の話す時間の長さなどではなく、自分たちに耳障りの悪い文言を聞く時間を意味しているのです。それがとても率直に語られている全文です。

 森喜朗が名町長であったことは誰しも認めるところでしょう。顔見知りだけの町内を纏め上げることにかけては天才的。時には誰かを揶揄り、時には誰かをスケープゴートにしつつ、異質なモノを排除し、異質にならなければ旨い汁を分配する対象として町民に迎え入れる。この昭和的なのか、前近代的なのか、なんというか村社会を体現したような存在なわけです。しかし、町内だけで分配する旨い汁が調達できるわけはありませんから、町外、この場合には日本国民の多くに犠牲を強いつつ、町民の顔色をうかがうのです。

 利権を分配して貰った町民たち、その利権の分配にあずかりたい町民希望者たち、彼ら彼女らが森喜朗を高く評価するのはよく分かります。すべてが金と欲得のためでしょう。とても素直で分かりやすい。国民の多くはこの構図を感じるからこそ、森喜朗を評価する人が登場するほどに、さらに鼻白み、批判が高まっていくのです。

 そしてこれが他の多くの政治家と森喜朗の違いでもあります。例えば、安倍晋三前首相など、お友達内閣とマスコミが揶揄していたこともありますし、加計学園などへの優遇もニュースになっていましたが、それでも内閣支持率は高かったわけです。小渕恵三なんかも、決してクリーンな政治家だとは思い難いですが、それでも国民の支持率はそれなりに高かったわけです。一方、森喜朗内閣の支持率8%という数値は、自民党のコアな支持層の多くまでもNOを突き付けていた状況です。

 国民は、国民の方を向き、国民全体・日本全体の富や財産を増やすために尽力している内閣については、たとえ少々の後ろ暗い部分があっても、内閣を見捨てないのです。いうなれば、パイが拡大していく中での歪みには人々は鷹揚です。ところが名町長の森喜朗の場合には、町民と町民以外との間でゼロサムゲームを始めるのです。町民以外を気にする必要なんてないので、名町長さんとしては当然の行為なのでしょう。たとえ、首相のポストにあっても、オリンピック組織委員会の会長のポストにあってもです。それどころか、ゼロサムゲームにうつつを抜かしていくうちに、パイを縮小させていくことも多いときている。これは酷い。

 日本社会には森喜朗的な人が溢れています。ミニ森喜朗だらけです。そしてそれが、日本社会の長期没落傾向の根本的な原因でしょう。この、パイが縮小していくことなどは気にも留めず、ひたすらゼロサムゲームにうつつを抜かす存在。その象徴が名町長たる森喜朗であり、20年前にもあんなにも不愉快だったのかと判明したのでした。そして、20年たっても森喜朗的な人々が跋扈しているからこそ、日本は至るところでパイを縮小させ続けるのでした。やっぱり終わっているな、この国。

15日(月)
 お笑いの手法について、カミさんと話していたのですが、関西のお笑いは会話のやりとりに笑いが生まれると。カミさん曰く、それに対して中国地方におけるお笑いとは、剛速球で暴投する様子を凄いなぁっと眺める笑いとのこと。千鳥の大悟、有吉弘行、アンガールズ田中などなど、だいたい同じ傾向の暴投剛速球の笑いというのです。トークの相手や、同じ舞台にいる人達が、拾えないくらいの暴投をするところが面白いというのです。カミさん曰く、中国地方の子たちは、この暴投を子どもの頃から心掛けるらしいです。

 翻って、僕らの文化圏の笑いって何だろうなぁっと考えるに、あまりお笑いを重視する文化圏ではないような気がします。お笑いタレントを並べていくと、Mr.マリック、ナポレオンズの小柄なほう、清水ミチコ、神無月etc。声は発しているものの、誰も会話してねー。なんて言うか、自分自身での得意な芸を身に付け、その得意な芸を磨いていき、それを楽しんでくれる人たちへと、こんな事も出来るんだぞと披露する。それが世間に受け入れられれば笑いが成立し、受け入れられなければ自分一人で完結するわけです。ただし、落語家とかもあまりいないですし、言葉による笑いを、子どもの頃から意識的にトレーニングされることが無い結果だとも言えそうです。

 それって、関西などの会話を重視するお笑い文化とは全く異質なモノですし、中国地方の会話の暴投を楽しむお笑い文化とも全く異質なモノですが、それでも楽しいです。いうなれば、職人技をただただ磨いていくだけの修行。個人の中である種完結するものなんですね。これ、世の中に自分以外誰もいなくなっても一人で楽しめるから、かなりエコだな。いや、ナポレオンズは大きいほうがいないと成立しないか。

17日(水)
 ふりかけの〈ゆかり〉のシリーズに、初めての男性名である〈ひろし〉が登場するということでニュースになっていました。メーカーの三島食品というのが広島の企業らしく、広島菜を使って〈ひろしまな〉から〈ひろし〉なんですね。元々は今度も女性名で行く予定だったところを、会長さんが男の名前もあったっていいじゃないかと、鶴の一声で男性名になったとか。

 たぶん、たまたまなタイミングだったのでしょうけれども、オリンピック委員会の男尊女卑の体質とのコントラストで、えらく三島食品の会長さんの時流を読む上手さがクローズアップされた結果になりました。今までは女性名しかなかったわけで、これまではジェンダーバイアスにかかった商品シリーズだったわけですが、一気に逆転ですね。これにより、そこらのオリンピックのサポーター企業がイメージを下げていく中、森会長の女性蔑視発言との対比で企業イメージをアップさせたんじゃないでしょうかね。

 ところでこの〈ゆかり〉を使って、うちのカミさんは大根の〈ゆかり〉漬を作ってくれます。大根を少々の塩でもんでおいて寝かせてからの、〈ゆかり〉でまぶした大根でして、けっこうな梅味パリパリ大根です。塩梅を辛くし過ぎないのがコツでして、最初の塩では味付けしない感じで、少々水分を取るだけ。味付けは〈ゆかり〉で、っていうのが美味しい秘訣みたいです。

 ところで、繊月酒造の二斗五升キャンペーンを頑張った結果として、応募した人には全員が貰える牛肉が届きました。熊本の〈あか牛〉です。酒を飲んだくれているだけで、〈あか牛〉が届けられるとか、一石二鳥どころの騒ぎではありません。ただ、年末年始は、シャンパンは飲むわ、日本酒は飲むわ、洋酒も飲むわ、他の焼酎も飲むわというシーズンでして、それに加えてカミさんと2人で〈繊月〉も二斗五升飲むというのは、それなりに大変でした。普通の何もない時の二斗五升と、年末年始の二斗五升では、大変さが違う。

 〈あか牛〉400g、しゃぶしゃぶ用という事でしたので、ここは素直にしゃぶしゃぶにして食べたのですが、絶品です。肉のうまみがジュワーッと口の中に広がり、これが二斗五升飲んだご褒美だと思うと、さらに美味しさが増すのでした。しかし若い頃は、しゃぶしゃぶというのは勿体無い食べ方だなぁっと思っていたのですが、この年齢になってくると牛肉の脂分が程よく落ちて、しゃぶしゃぶの良さを実感できるようになります。まだまだステーキや焼き肉も良いですが、しゃぶしゃぶの良さまで感じられるようになったのは、年齢を重ねたご褒美でしょうかね。

22日(月)
 本能寺の変を起こした明智光秀のメンタリティっていうのは、色々と説が出されている問題ですが、〈麒麟がくる〉では視聴者の側が本能寺の変の原因について様々な事を考え、知っていることを前提にしつつ、その何処に落としどころを持ってくるのかを楽しむという作りになっていました。(総集編前ですがネタバレあり)

 個人的には母親役をした石川さゆりが、天城越えを情念を込めて歌う感じで磔にされて欲しかったのですが、このキャスティングなどもその典型例でしょう。新型コロナウイルスさえなければ、もっと石川さゆりの出番も多くなり、母親が見殺しにされた恨み説などへの誘導色も濃くなったことでしょう。

 坂東玉三郎が演じた正親町天皇に焦点が当てられていたのも、朝廷黒幕説へと誘導しているのではという印象を作るためだったでしょう。現在の学説では、譲位をして上皇になり院政をした方が、朝廷のあり方としては自然な状況だと思われていた時代でして、朝廷黒幕説とかは否定されているのですが、大河ドラマとしてはその脚本は有り得るでしょうから、これも目が離せませんでした。

 また足利義昭黒幕説へと誘導しているのでは思わせるために、滝藤賢一が演じた足利義昭も、還俗前の一乗院覚慶の頃から描く念の入れよう。鞆へ行った後も、当初は鞆幕府をイメージさせるように諸国の大名や豪族たちへと書簡を送りまくっていたり、個人的にはこの足利義昭黒幕説へと持っていくのではないかと騙されていました。

 吉田剛太郎が演じた松永久秀と、かなり若い頃から知り合いだったことに始まり、気持ちを共有し共感し合うような、そういう存在として描かれていました。松永久秀の気持ちを受け継ぐような、そういう野心的な事も含めて引き継ぐ感じが、平蜘蛛を爆発に使わないで表現されていましたが、結果的にはこれも強い要因では無く終わってしまいました。

 次は自分が殺される番だと思い込むノイローゼ説としては、松永久秀らの討伐に加えて、風間俊介が演じた徳川家康の饗応解任などが加わった形での打擲などが有名ですが、こちらは比較的有名エピソードを取り入れながらも、その意図を、徳川家康に思い知らせるために明智光秀を利用したという、新しい視点を取り入れたりしていました。

 そんなこんなで、濃姫なども出てきて、最終的には製造者責任説へと落ち着くわけですが、色々な伏線の大半がダミーであったことに感心しました。ドラマとして、本能寺の変の原因を探る壮大なミステリー仕立てになっていたことに、最終的に気付かされるトリックでして、ドラマの細部は兎も角として、全44回で楽しむ作品になっていました。

 ちなみに個人的には、本能寺の変の原因については全く違う解釈をしています。まぁ専門でも何でもないので完全なる仮説があるだけですが、美濃人のメンタリティ的に、従来ある説っていうのは全部違うように見えるんですよね。東京の人はそうかもしれないし、名古屋の人はそうかもしれないし、大阪の人はそうかもしれないですけど、美濃の人、特に東濃西部の人の行動パターンとしては、どれもこれもシックリと来ないんですよね。